インタビュー・体験談

変形性股関節症でも楽しくマラソンできるようになった〜マインドセット編1〜

1話目
>>変形性股関節症でも楽しくマラソンできるようになった〜食事編〜

☆きっかけはトライアスロン☆

35歳から突然トライアスロンをはじめた。

宮古島トライアスロンの第1回大会の模様を、
NHKで1日中放映しているのを見たのがきっかけだ。

 

宮古島のスイム会場
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トライアスロンにはすごく興味があったが、到底自分が出来ると思えなかったのだ。別次元のとんでもなく運動能力にたけた人たちだけのもと思っていた。

 

ところがである。

 

その日は第1回の大会と言うわけで、1日中テレビ放送していた。

トップ選手がもうゴールした後のずいぶんと遅い時間帯に、
後ろの方を走る選手たちを映していた。

女性が二人、楽しそうに話をしながら最後のマラソンを走っている。
しかも、その時の私よりもはるかに年上の女性たちだった。

なんだ、そんな風に走っても良いのか・・・。

それならできるかな?と何とも都合の良い勘違いから始まったのだ。

 

☆思い立ったら即実行☆

スイムも早くないけど泳げるし、自転車には乗れるし、走るのは大好き。

と言うわけでその年の8月には早速ロードバイクを購入していた。

しかしそのロードバイクというのが曲者で、ママチャリと違って、

ハンドルの位置が低い、タイヤが細くてふらふらする、
ハンドルも軽くてすぐにくるっと回ってしまう、の三重苦。

いや、それだけではなかった。

少し慣れてきて、長い時間乗れるようになってくると、

次はサドルにあたる部分と背中と首が痛くなってくる。

バイクに関しては、とにかく乗り慣れることしかないと思った。
スイムに関してはブレストはいくらでも泳げるけど、クロールは不安だった。

そこで、スイミングスクールに入った。
スイミングスクールでは、
やたらキックをやらされたことしか覚えていないが、

ともかく、力を抜いて泳ぐことを覚えたら、100mを泳げるようになった。

そして100m泳げるようになったら、その後はゆっくりならいくらでも距離を伸ばしていけた。

ランは以前から行っていたテニスやバドミントンのトレーニングの一環で、
仲間でマラソン大会に参加していたので、練習あるのみだった。

 

☆念願のトライアスロンデビュー☆

そして、次の年の1977年8月にいよいよトライアスロンレースデビューしたのだ。

その頃は、宮古島トライアスロンの影響で、トライアスロン人口が急に増加したのだが、
大会数がまだ少なかった。

それで、どこでもよいからと探していたら、初心者歓迎、夫婦での参加歓迎と言う大会があり、
その大会に申し込んだのだ。

トライアスロンをやろうと思っていなかったら、一生知ることがないほど開催地は遠かった。

記念すべき初トライアスロンの地は、青森県の北西部にある鰺ヶ沢というところだった。

まだ新幹線は青森まで行っていなくて、夜行列車とローカル線を乗り継いで、
やっとお昼前に到着するほどだった。

7月

梅雨明けしていない北の海は、顔を付けて泳ぐと息が詰まってしまう程冷たかった。

一瞬DNS(=do not start=”棄権”)が頭をよぎったが、せっかく持ってきたバイクに乗りたかったので、
ともかく行けるところまで頑張ろうとスタート。

今にして思えば、20数分でスイムアップしているので、距離は1㎞くらいしかなかったと思う。

顔を上げたままの平泳ぎで半分くらい泳ぎ、
水温に慣れしてからの後半はクロールでなんとか泳げた。

 

写真は昨年の徳之島のもの

 

バイクはスピードが出ると怖くて、制限時間ぎりぎりで走り終えた。

ランは得意のはずが、バイクに乗った後の足はまるで動かずとぼとぼ走りだった。

それでも、何とか走り終えることが出来た。

この時の順位はと言うと

参加選手中後ろから2番目のブービー賞だったが、
ゴールの瞬間は今までに味わったことがないほどの
達成感と解放感に包まれたことを今でも思い出す。

次の日は心地の良い筋肉痛に体が覆われていた。

今では考えられないくらいの、短い距離のレースだった。
この時は実践トレーニング以外に、
筋トレやストレッチをしようという考えには全く及ばなかった。。

そのことが、後々の競技パフォーマンスと自分の体にどんな影響をもたらすことになるのかを
まったく考えていなかったのだ。

3話目
>>変形性股関節症でも楽しくマラソンができるようになった〜マインドセット編2〜

 

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星野美智子
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痛い!がすべての始まり わがままシニアの独り言